バリアフリーを考えてみた

自己中な考え!


これはあくまで、1・車椅子の五十嵐が感じたこと・理想ということで、別に文句を言っているわけでも、個人的にどの店!というように言っているわけではありません。
夢であって、独り言のような考えですので、よろしくお願いします。
まず、バリアフリーとは、車椅子の人が行きやすい!という考えが主です。
確かにそうかもしれませんが、バリアフリーになることによって、
健常者が使いにくくなる!ということは滅多にないかと思われます。
健常の方が使いにくい・・・と思っていても、聞いたことないので、わからないですが・・・
お店に「誰でもトイレ」もしくは、「身障者用トイレ」がない。
もっと細かくいうと、普通男性・女性用トイレに、車椅子の人が入れない!
と、
健常の方が、ご飯を食べに行って、その場所に普通のトイレがない!と同じ考えです。
みなさんは、普通トイレのないレストランもしくは、飲み屋にいく勇気がありますか!?汗
たとえ行くとしても、違う場所にトイレを借りに行くのは大変なことです。
と、車椅子の人は思っているかもしれません。
(自分はある程度のトイレなら大丈夫ですが・・)
まぁ言いたいことがうまく伝わらないので、簡単に言いますと、
バリアフリー=障害者が使いやすい!
という考えではなく、
バリアフリー=誰でも使いやすい!
という考えになって欲しいと思います。
スロープをつけた。障害者用トイレを作った。店を広く作った。
しかし、
障害者が店に来ないので作った意味がない!
と思わないでください。
そのおかげで、誰でも使いやすく感じてくれるはずです!
そして、健常者の友達に車椅子の人が居た場合、
「あのお店広いから、お前でもいけるよ」と
口コミで、広まっていき、どんどんいろいろな年齢層のお客さん。
健常者・障害者問わずに、人気のあるお店になっていくと思います
(料理の味は関係なく・・・笑)
先ほども書いたように、
バリアフリー=身障者用に作ったお店なのに、身障者が来てくれないので、
意味がない!といわずに、
今通っているお客さんがなんだかの事故や病気にあって、
車椅子生活になっても、そのお客さんが来てくれるだろうし。
年をとって、足腰が弱ってしまって、外に出歩くのが面倒だ!
と思う、お客さんも来てくれると思います。
もし、これからお店を作る。改装する!というお店があれば、
身障者用!ではなく、身障者でも入れるお店!
ということで、誰もが使いやすい。居心地のよいお店を作って欲しいです。
そして、うちはバリアフリーに作ってない!ので、車椅子のお客は入れない!
と思っているお店も中にはいます。
これから改装するのであれば、もちろん誰でも入れるお店を作って欲しいと思いますが、
もう作ってしまってあるものは、しょうがない!
ご飯がおいしいとか、お店の雰囲気がいい!
このお店に入りたい!
と思えば、お店の方にお手伝いいただければ、どこでも入れる!
自分達もそうですが、
今まで友達と遊びに行く場所も、バリアフリーということは、ありません。
まぁ名前を出してしまうと、毎日でも通いたい
「ドンキ・ホーテ」さんなど、一人では行けない!という悲しい現状ですが、
友達が助けてくれるので、何度も行っています!
自分達は階段が辛いですが、
お年寄りの方も辛いと思います。
階段多いからな・・・と、迷ってしまう人も中にはいます!
そして、お店で大きなものを買ったと考えます。
そしたら、車までお持ちしましょうか?とお店の方に言われるかもしれません。
「あ”!お願いします」といい、階段から重い荷物を運んでくれ、車に乗せてくれます。
でも、その重い荷物を買ったから、手伝ってください!と言いやすいですよね。
それは、買ったんだから、運んでくれるくらいはお願いしよう!!という意味で
すんなりいえますが、
買う前にお店に入るまで、どうして手伝ってください!といいにくいのだろう。
もしも、そのお店の中を見るだけで、何も買わずに帰るとすれば、
申し訳ないような気がしてたまりません。。。(自分は・・・)
う~ん。難しい。そこなんだよな。。。
そういった意味で、誰にでも優しいお店を!
よろしくお願いします。

コメント

  1. TAKAKUWA より:

     バリアフリーについての考え、納得です。「誰にも」ということの意味です。
     戸外での活動・食事みたいなことを、先のコメントで長々と書いてみたけれども、本質は同じことです。
     やってみたい、行ってみたい、ということは同じだと、戸外でトイレがないところ、沢山あります。要は周りから見えないようにして、用を足せるような工夫がされていれば良いわけで、戸外活動の場合、立派なものでなくても良い、という考えです。障害のある方にも使える「工夫」は簡単、最小限なものでも良いです。
     こうして、誰でも使える簡単トイレが出現できれば、戸外の活動フィールドはどんどん広くなりますね。
     今回のモニターツアーに大阪から来た少々重たい方は、旭岳ロープウェーに乗り、山頂駅で戸外に出て、スキーヤー、スノーボーダーが滑り出すところを見、一緒に記念写真を撮ったことが、とても良かったと言ってました。「行きたいなぁ」と思いながら、「行けるかなぁ」と不安を持っていたけれども、そこに行って楽しむことができた。帰ってからも、仲間達に写真を見せ、所属する組織の機関誌にもレポートを掲載してくれました。
     
     今夏、気持ちの良い気候の時に、戸外お楽しみ会がやれれば良いですね。
     
     

  2. 北のカムイ より:

    キャンピンクカーのトイレタンクってどうなってるの?
    登山者用の用足しブースって?
    さらに、携帯用トイレって?
    ケースバイケース、用途によって・・・
    やっぱり、北海道の冬の仮設トイレに水の用意は厳しい
    これら、完璧さからは程遠いものが役立っている事実、完璧ばかり追及すると「しない理由」のオンパレードになりそう
    どうすれば成立するか、その時々の対話の積み重ねから相互妥協ができればそんなに問題なくユニバーサルに近寄れるのでは

  3. 北のカムイ より:

    キャンピンクカーのトイレタンクってどうなってるの?
    登山者用の用足しブースって?
    さらに、携帯用トイレって?
    ケースバイケース、用途によって・・・
    やっぱり、北海道の冬の仮設トイレに水の用意は厳しい
    これら、完璧さからは程遠いものが役立っている事実、完璧ばかり追及すると「しない理由」のオンパレードになりそう
    どうすれば成立するか、その時々の対話の積み重ねから相互妥協ができればそんなに問題なくユニバーサルに近寄れるのでは

  4. ユニバーサルトイレ思索(しさく)中

    ユニバーサルなトイレの思索(しさく)? そして今は産学官連携によって思索(しさく…

  5. takakuw より:

     Iさんの最後のところ、本質の部分の1つなんでしょう。
     利益があがらないとお客ではない、営利目的だからと、それから、お店で働く店員はたぶん「売る」ということが絶対の使命になっているだろうから、金にならないサービスには渋くてもあたりまえか…。そういう人もいれば、いつだったか、タウンウォッチの際、ファストフード店の店員だったけれども、進んで誘導のお手伝いをしたような娘もいた。
     仮に、「営利」だけを取り上げてみて、たとえば、心から手伝うということでなかったとしても、ウィンドウショッピングのお客だってその店の大事な顧客なんだ、通ってくれるリピーターが多くて、つまり、誰でも行きやすくて賑わっていれば、店としては長期的に考えて絶対良いのだと経営の方針が出されれば、とりあえずは○の部類には入れるか。…これは本旨ではないけれども。
     さらに、一段進んで、「無料のサービス」(ここでは経営面で見て、あえて「無料の」と呼ぼう)が、普通に、とても気持ちよくなされる店ならば、店員さんたちも様々だけれども、そうした店員さん(西武デパートのコンシェルジュみたいな訓練された人も含めて)の割合が多くなるほど、良い。
     
     ボランティア、バリアフリーがより進んでいると話には聞く外国の中のある国々では、どういう感じなのだろう。基本的には、「普段」の姿勢が大事なのであろう。社会的にそういうムードができていたり、教育や学習の中でも自然に身についていく、実につくためには普段からそういったことに多く接し考える機会も多いと。
     ぜひ、G社長らの海外視察の報告を、いずれ、聞きたいです。
     そうしたことが自然になされる「行動変容」、様々な主体がですから、これは地道ながら、ユニバーサルな受け入れには大きな目標ということがありました。
     今年度の取り組みの初期段階で神戸視察をした際に、彼らはモデル的にもそうした人の体制を作っていました。まずは、「営利」を伴うサービス(即時の営利につながらずとも、長期の顧客可能性も含めて)ということだとしても、まずは一歩。
     
     何か、お店とか、施設などの部分と、もっと広範な地域としてのユニバーサルみたいなことが、ごっちゃになって書いてしまったけれども、究極は「誰でも一緒」という意識の普遍化なんだろうと思う。
     ここまでいくとね、今は障害ということを取り上げたユニバーサルってことテーマになっているけれども、もっと広げると、貧富とか、美醜とかいうことも、質的には通じるものがあることに気づく。
     
     富める者が賞賛される、美しい人が賞賛される片方で、貧しい人は苦しめられる、醜い物は一瞥すらされないみたいな、これは人間の本質的なことなのか。深く深く考えていくと、つまるところは、「どう生きるか」という各人の意識なのか。
     考えてみると、日本人、日本ではこうしたことを話し合う、ということが日常あまりにもないように思います。
     
     欧米の先進国では、どうなんでしょうか…。
     ちょっと、どんどん発展して、収集が難しくなってきました。また改めて。  T